フィレンツェにあるバルジェッロ美術館。
刑務所としても使用されたこの建物は1800年代に再発見されて、彫刻美術館として生まれ変わった。
建築は1252年。ポデスタと呼ばれる外国(近郊都市)からの長官のための施設として建てられた。
それを表すかのように、1800年代に美術館として生まれ変わる時には中世を意識して当時の家紋が並べられた。
中庭はこんな感じで家紋が並ぶ。集められなかったものは1800年代に再制作されたらしい。
そんなバルジェッロ美術館。
見所は(たくさんあるけど)1階のミケランジェロのコレクション、そして2階のドナテッロのコレクションである。
エロティシズム漂うダビデ像や
凛々しい聖ゲオルギウスなど
華やかな作品が並ぶ中、ちょっと地味な作品がある。
肉体とは魂を運ぶ馬車
こちら「若き新プラトン主義者の胸像」
いかにも1400年代当時にいそうな若者の何気ない胸像である。
ドナテッロ特有のリアリズムに基づいた、という以外ぱっと見さしたる特徴があるわけでもない。
しかし、新プラトン主義をちゃんと知っているとこれはその哲学をまさに表したものであることがわかる。
首から下げているメダル。ここにポイントがある。
これも一般的に馬車(戦車)を操る人、という以外さして特徴もないように見える。
しかし、これは1400年代のメディチ家の繁栄を支えたロレンツォ豪華王のコレクションの一つ。
新プラトン主義によると肉体とは魂を乗せて運ぶ馬車なのである。
なのでこのメダルは人間の象徴。御者が魂であり、馬が肉体なのである。
しかしこれにはもう少し深い意味があるのだ。
人間の意思に重点が置かれるルネサンス
というのは、私たちは自分の意思をコントロールしなければならないという考えである。
ルネサンスに先立つ「暗黒の中世」と呼ばれる時代は神が全てであった。
この世は神が作りたもうたものであり、この世は神の世界で生まれ変わるために耐えるべき世界。
人間は神に比べて非力で小さい存在である。
ゴシック建築が尖塔型であるのも神の偉大さを感じるため、中世絵画で人間が聖人に対して小さく描かれるのもこの概念に基づく。
しかし、ルネサンスになるとこの概念が覆される。
天上の世界は神に属するもの。
しかし地上の世界は人間がその理性に基づいて作ることができるという概念だ。
私たちには意思がある。
その意思を最大限使って世界を築いていくことができる、というのがルネサンスの哲学といっていい。
常に手綱を握っておく
ルネサンス的思考で言えば、私たちは自分の意思を使って世界を作ることができるのだ。
それに基づいて建築を始め、様々なものを生み出すことができる。
(ちなみに中世では建築も絵画も「神の力」によって人間が手を動かして作ったもの)
21世紀に住む私たちは、15世紀のルネサンスの人たちよりさらに自由な世界に生きている。
しかし実際には自分の意思ではなく、社会のプレッシャーの中で「やらされて」いることが多くないか?
私たちの人生は誰のものなのか?
ルネサンス哲学に基づけば、私たちは意思に基づいて自分の運命を切り拓くことができる。
掲題の「若き新プラトン主義者の胸像」のメダルに戻る。
肉体は魂の乗り物である。そしてその魂の進むべき道に従って馬車を制御していく必要がある。
私たちは本来進むべき道に進めるよう、馬を御していかなければならない。
馬が御者を引っ張っているようではいけないのだ。
もし馬に自分が引っ張られていると感じるのであれば、今一度手綱を自分の手に戻して欲しい。
そして自分の人生を御していくのが、私たちひとりひとりが担う一番大きな人生においての責任、なのではないだろうか。
(2017/8/27 加藤まり子 筆)
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